「パールハーバー(真珠湾攻撃)」

「ミシガン湖畔リッジ通りから」ーー牧師の月ごとエッセー  2019年12月
 キリスト教会にとって12月の目玉商品は何と言ってもクリスマスであるが、アメリカに住んでいる日系人としてはパールハーバー記念日が1941年12月8日にあり避けては通れないので複雑な気持ちになる。パールハーバー(日本軍による真珠湾攻撃)はアメリカにしてみれば本国からかなり離れたハワイ島であっても国内に攻め込まれた事件として忘れられない屈辱である。その後2001年9月11に有名な9-11の事件が起こり、これはイスラムがアメリカの中心的なニューヨークに攻め込んで来た事件として忘れられない大事件を引き起こしたのでパールの方は忘れてくれるかと思うと決してそうではない。依然としてパールの日が近くなると何らかの記念事業のニュースがハワイからシカゴまで伝わってくる。肩身が狭く感ずるシーズンである。
 私はグリーンカードビザの身分でお客として住ませていただいているアメリカなので批評がましいことを言ったり書いたりすることは控えるが、12月8日のパールハーバーは数カ月も絶たずにアメリカ在住の日系人の強制収容所送りにつながった。12万人の日系人が約10か所の鉄条網で囲まれた強制収容所へ送り込まれた。その中の60%(7万人)はアメリカ国籍の日系人Japanese Americanであった。アメリカの憲法でアメリカ国籍の者は裁判の権利を保障され、裁判のプロセスなしに刑務所に入れることはできない、と明言されている。それなのに7万人のアメリカ人を裁判のプロセスを踏まず、刑務所に入れたのであるから憲法違反であることは明らか。それにもかかわらず12万人の日系人は「しかたがない」と言う人生哲学で黙々としてルーズベルト大統領の率いるアメリカ政府の命令に従ったのである。1942年2月、真珠湾攻撃からわずか3か月後の事件である。アメリカに住んでいたすべての日系人の人生が強制的に捻じ曲げられ、アメリカ西部の10の強制収容所に振り分けられ、犯罪人のように監視された生活を強制されたのである。罪状は「敵国日本人の血が流れている」という理由である。7万人のアメリカ国籍日系人にしてみれば、信頼していた「自分の国」によって1万人ぐらいの単位で集団管理された屈辱の経験であった。非常に短期間の準備時間しかなく、ただ同然でせっかく集めた自分の財産を処分し、着の身着のまま強制収容所と言う名前の刑務所に放り込まれたのである。
 たった3人の青年がアメリカ連邦政府を憲法違反として法廷闘争を開始し、犯罪人として刑務所に入れられた。強制収容所は3、4年で解散され、日系人は汽車賃だけもらって放り出された。3人の青年たちは有罪判決の記録をくつがえそうとしたが、最終的に有罪判決が無効とされたのは1980年の中頃になってからで、事件から40年も経ってからである。
 パールハーバーは憲法は戦争の前には沈黙すると言うことを明らかにした事件であり、US最高裁判所の判事のAntonin Scalia (1936ー2016)は、同じようなことはこれからも戦争の時に起きる可能性があると言った。彼でさえもサジを投げるくらい人種差別は根が深いのである。その日が来ると「自分はアメリカ生まれの日本人」「自分は英語の発音のいい日本人」と言っても「イエローはイエローだ」と言う嵐に吹き飛ばされる。